護衛艦「さざめゆき」通信士のときの遠洋練習航海

護衛艦「さざめゆき」に急遽乗組んで行った遠洋練習航海は、環太平洋のコースで、その寄港地はフィリピン(スービック)、タイ(バンコク)、シンガポールインドネシアジャカルタ、スラバヤ)、オーストラリア(ダーウィンブリスベンシドニー)、パプアニューギニアポートモレスビー)、ニュージーランドオークランドウェリントン)、仏領タヒチパペーテ)、アメリカ(ハワイ)です。
 シドニーでは国際観艦式が行われ、オペラハウス前の港湾にオーストラリア海軍を中心に、各国海軍の艦艇が揃う様は壮観でした。この航海の中で一番印象に残ったのは、パプアニューギニアポートモレスビーに停泊して、日本の大使(又は領事)から受けた講話の内容です。それは、「上陸しても、今停泊している艦艇から見えている範囲内で行動して下さい。峠を超えて向こう側に行くと危険です。先日もある国の外交官が現地人の槍で負傷しました」というものでした。子供が成長してテレビアニメの「パプアくん」を見る度にこの時の話を思い出してしまいました。

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さざめゆき通信士のときの遠洋練習航海

「青白き船乗り」実習幹部の遠洋練習航海

実習幹部の江杉の乗った宴練習航海部隊は、5月に日本(横須賀)を出港したのち、太平洋を渡ってアメリカ(ポートランド)をかわきりにパナマ(バルボア)を経てパナマ運河から大西洋に出てアメリカ(ノーフォーク)、アメリカ(ニューヨーク)、カナダ(モントリオール)、カナダ(ハリファックス)、アメリカ(ニューポート)、メキシコ(ベラクルス)、ドミニカ共和国サントドミンゴ)、パナマ運河を通って太平洋側に戻りパナマ(バルボア)、ペルー(カヤオ)、エクアドルグアヤキル)、アメリカ(ハワイ)を経て10月に日本に帰国する航程でした。この遠洋練習航海の前に1年間の江田島での幹部候補生教育がありますので、そこで毎月定積みでお金を貯め、さらに給料3か月分の借入金を行って軍資金としました。この幹部候補生の卒業の頃に急速に為替相場円高に進んで行きました。海外で買い物をするには円高はウェルカムです。年末に1ドル230円程度が、2月には200円程度まで上がりました。そのとき、候補生仲間の一人が、知り合いの金融関係者が言うには「これくらいが限度だ。これからは円が下がるので、今が換金時機だ」と。江杉は早速持っていたほとんどの円をドルに換金しました。しかし、その後もどんどん円高が進み、部隊が出国する頃には1ドル180円程度までに値上がりしました。結局、為替相場などに何の関心も持ったずに最後に換金した者が最も得する結果となりました。
 遠洋練習航海中は、実習幹部は旗艦である練習艦と随伴の護衛艦とに分乗します。そして、それぞれの艦の中で、艦橋での勤務、CICでの勤務、機関室での勤務を実習していきます。艦橋では艦の運航を指揮する当直士官とこれを補佐する副直士官、CIC(Combat Information Center:戦闘指揮中枢)ではCICにおける運行補佐などを、機関室では機関科副直士官としての運転指揮などを実地に学ぶのです。そのほか、対空、対潜、対水上の戦闘訓練や、防火、防水、応急操舵などの緊急部署訓練、霧中航行や洋上補給などの作業部署訓練を航海中のほぼ毎日行って、半年後の実際の配置に備えるのです。ただ、実習幹部の全員が終了後に艦艇に乗組むのではなく、航空機に乗ったり、これを整備する関係の職務に就く者もいます。その配属は、この遠洋練習航海が終了する間際に通知されるので、それまでの間は総員が艦艇勤務になる可能性があるものとして訓練に励むのです。航空機のパイロットを夢見て入学、入隊した者も最後に希望がかなわず辞めていく者もいます。
 各寄港地には、通常2泊3日程度停泊します。そのうちの1日は部隊で計画する研修ツアーで、各国海軍の施設の見学や市街地の観光施設などの見学を行い、1日はフリーの日があります。その他、交代で停泊中の当直勤務を実習したり、
夕刻のレセプションに交代で参加します。フリーの時間は、現地を肌で感じる貴重で楽しい時間でこの時間の使い方が遠洋練習航海全体の楽しみを大きく左右することは言うまでもありません。
 実習幹部のみならず乗員も帰国後の家族へのお土産を買い込みますが、勢いで買ってしまい失敗することも多く見られます。メキシコの大きいひさしの帽子「ソンブレロ」などはその代表だと思います。 ニューヨークでは、ティファニーに多くの乗員が殺到しました。彼女にプレゼントを買い求めたのです。それが功を奏したかどうかは、本人のみが知る・・・です。
 カナダは当時、三軍が統一されており、海軍の軍人の制服も支給されたものは白ではありませんでした。話をしたカナダ海軍の士官は、「海上自衛隊の白い制服が羨ましい」と語っていました。当時、自衛隊の引け目を感じていた江杉は、各国それぞれの事情を持って様々に複雑な感情を持っていることを実感しました。ペルーは当時軍政で、反政府組織の活動が活発な頃でした。街中には小銃で武装した兵士が多数配置されていました。エクアドルでは、フリーの時間に、個人的に首都のキトに行きました。飛行機を使っての移動でしたが、現地の航空機は自由席でした。首都のキトは赤道上にあり、それを示す赤いラインが地面に描いてあり、これをまたいで写真を撮るのが定番のようでした。ここは2850mの高地にあり、普段身体を鍛えている実習幹部でも僅か3階の階段を上るのにも息切れしました。艦に帰ってから教官に「本行動中に飛行機に搭乗するのは禁止されている」と注意を受けましたが、それでも印象に残る

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遠洋練習航海
貴重な体験でした。

KINDLE(電子)版「青白き船乗り」についてお詫び

 KINDLE(電子)版の「青白き船乗り」の第3章の「練習艦「なつぎり」艦長」の節に2か所、不要な改行があり読みづらくなっております。既に購入された方には誠に申し訳ありません。出版社に当該箇所の是正を要請しております。気になる方は、20日からの無料ダウンロード期間中に更新していただくようにお願いいたします。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。

船を降りて日本に帰りました。

 8月8日に中国舟山市の小島にあるドックに入港中にCAPE HOPEを下船して、2回フェリーに乗って本土へ、それから寧波(ニンボー)空港から、香港、仁川(インチョン)経由、8月9日に福岡空港に到着。船員は、日本で船に乗船しても出国のスタンプは押されません。そして、中国で下船するときは、その1週間前に入港した時点で入国審査はありますが、パスポートにスタンプは押されませんので、出国当日に入国管理局に赴き、パスポートに改めて入国のスタンプが押されます。なので、入国と出国のスタンプが同じ日になります。空港で出国の時に若い出国審査官にそれを不審がられ10分くらいゲートで待たされました。
 香港空港は20年前にいったときとは全然違っていました。広くてきれいで、日本産のお土産も売っていました。インチョン空港は、3年前にもトランスファーで間違えて、韓国への入国ゲートに並んでしまいました。入国ゲートの直前のトランスファーの左にまがる通路案内がよく分かりません。だけど、出国審査ゲート内のショップの数や種類は香港よりも随分多く感じました。
 しかし、9時過ぎの福岡便、搭乗する人の少なさには驚いた!登場開始の時点でゲートに並んだのは約30人!最終的な搭乗員も多分50名前後だったのでは?韓国政府の○○な政策の成果?だろうけど、乗ったのは韓国の航空機!ですからぁぁああ!残念!(ふるい?)

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ガラガラの福岡行の待合室(インチョン空港)

Thank you, CAPE HOPE

平成31年2月13日にJFE川崎で乗船して日本とオーストラリアの間を石炭や鉄鉱石を運んできました。途中年号が代わって令和元年8月8日に下船まで177日。オーストラリアまでを3往復と中国のZhoushan Shipyardまで航程約24 ,000マイル(約44,000km)地球を1周ちょっとになります。船長はじめ船員はみんな明るく親切で、働き者の楽しい日々でした。毎日朝晩1時間ずつ行った日本語レッスンは楽しい思い出ですし、ともすれば退屈な日々を充実な時間に変えてくれました。台風が近づく海域を航海することになりますが家族との再会の時まで元気に頑張って下さい。

Cpt.Chuaありがとうございました。

Crewのみんなありがとう。私が贈った古いギターボロくてごめんね。

CAPE HOPE, BON VOYAGE!
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「青白き船乗り」執筆の理由

 この本を執筆した動機をお話します。自衛官現役のころ、飲み会などの仲間内での話もやっぱり仕事のことが中心となります。それぞれのエピソードを話すのですが、訓練での苦労話や自慢話の競争です。そういう話の中で、私が話す内容は、成果などではなく艦内外での変わった出来事が多く、仲間からそれほど多くのエピソードを持ている隊員はいないだろうと言われました。
 以前、私が乗っていた護衛艦で、私の部下にあたる隊員の奥さんが、インターネットに(元祖の)「官舎妻日記」のホームページを立ち上げていて、その投稿記事を読ませてもらいとても面白いと思いました。それで、そのような感じで、自分のエピソードを公開してみようかと漠然とは思っていましたが、公開するだけの十分なネタがあるのかも分からず、また、それをまとめるような具体的な行動もしないまま過ごしてきました。
 定年まで10年を切った頃、自衛隊教育機関で教官を務めることになりました。私が受け持つ学生は、幹部中級課程の学生で、彼らは幹部として部隊で6-8年程度の経験を経て入校した者が中心の学生で、自信もそこそこに持った元気盛り、生意気盛りの学生です。彼らに興味を引かせるためにはテキストをそのまま読み流すのではなく、自己の経験を踏まえた実践的な教育が必要と考えました。そこで、教務の合間にそれまでに経験したエピソードを踏まえて雑談的な話を交えて教務を行いました。比較的学生の受けはよかったように思います。そんな教務の終了後、ある学生が私の許に来て「教官。教官のそのエピソードを本にしてみてはどうですか。」と言ったのです。私は、以前考えたこともあったので「考えてはいるけど、どうかなぁ」とあいまいに答えました。しかし、彼の言葉でよりやってみようかなという気持ちが高まりました。それでもまだ具体的な行動を起こすまでには至りませんでした。
 そして、定年まで2年程度に迫った頃、エピソードがどれくらいあるのか書き出してみようと思い、罫紙に、乗艦してきた艦ごとに分けて書いてみました。すると、それは思いのほか結構な量になりました。しかし、訓練の内容や特殊な事情のあることなど安易に口外できない内容もあるので、それらを除外していきましたが、それでもそこそこの量にはなりました。ただ、現役中の出版するわけにはいかないので将来これをまとめる機会があれば、その時考えようと思ってその罫紙の束を大きい封筒に入れて引き出しにしまっておきました。自衛隊のOBで書籍を出版する人は多くいます。それらは大概、日本と国際環境から今後の防衛政策はいかにあるべきかとか、国防、軍事に関する歴史的な考察、自衛隊の装備係る変遷と今後の推移の見通しなど高尚なものばかりで、著者も高官の履歴者ばかりです。それに比べて自分の書くものが小さく、俗っぽいものに思えましたが、組織は人、自衛隊も人でもっているのは間違いありませんので、これまであまり自衛隊関連の書籍で触れられなかった人、特に自衛艦に乗っている乗員のことを書くのは悪いことではないと考え続けていました。特に、昨今の少子化で特に艦艇希望者が減って、その確保が難しいと言われる時期にあって、艦艇勤務の生の声を届けるのが必要なのではないかという思いが募っていきました。現職中に出版することはできませんので、退職後にいつか出版しようと思ったのでした。

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遠泳訓練
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練習船で温度瀬戸通峡
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海士の学生
 定年を迎え、造船会社に再就職しました。1年半が経過した頃、出向して、外交航路の貨物船に半年間乗船することになりました。外洋航路の船は、航海中は自衛艦とは違い当直のほかはほとんど何もやることがありません。しかも船員はすべてフィリピン人です。それで、余りある時間をどう過ごそうかと考えたときに、書き溜めたこのエピソードをまとめて、できれば本にして出版しようと思いついたのです。船に持ち込んだパソコンに原稿の束を書き起こすのに2週間程度掛かりました。そして、何か書き忘れていないか、表現はあれでいいかなどを船上で日課にしていた1日5km約1時間のウォーキング中に考えました。そうすると、1時間があっという間に過ぎますし、ふと思い出したエピソードが相当数あり、それを盛り込むことができました。
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航海中の貨物船
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船と夕日
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夕焼け