進水

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注水完了
船を作っていく過程で、重要なイベントが、「進水」です。
船の建造は、造船所内の工場や常盤(じょうばん)といわれる敷地で鋼鉄板の切り出しと穴をあけたり、様々な鋼材を取り付けたり湾曲などの加工が施され、小さいブロックを成形します。次に、その小さいブロックを組み合わせて徐々に大きいブロックにしていきます。大きくなったブロックを船台やドックに運びこれをつなぎあわせていくのです。そうして、船台やドックでつなぎあわされた複数のブロックは、数か月で船の形に整っていきます。これにエンジンや舵を取り付け、錨なども搭載して見かけ上では、どうにか船になったときに、船台やドックを離れて艤装(ぎそう)岸壁に係留します。この船台やドックを離れる作業を「進水」といいます。船台は、スロープ状の組み立て台です。進水する船は、このスロープを滑り降りて海面に着水します。
船主により船をつなぎとめている支綱(ロープ)を切断すると、船首部にシャンパンの瓶が当たって砕け、あたかもはじける泡の衝撃で大きい船がゆるゆると動き出します。徐々にスピードを上げて最後に勢いよく水面に落ちる様は圧巻の一言です。
ちなみに、自衛艦の場合は、進水式に合わせて艦名を付ける「命名式」を行っています。一般商船の場合は、完成して引渡しの時に命名式を行う場合が多いようです。一般の方の「進水」のイメージは、この船台から滑り出る船の姿だと思います。
しかし、船の大型化に伴い、船台とのサイズが合わないことや、滑り落ちた船の制御が難しいことなどから現在では、ドック内で組み立て、組み立て終わったドックに海水を満たして船を引っ張りだす方式になっている造船所が多いようです。
ドックのことを日本語で「船渠(せんきょ)」と言い、ドックから船が出ることを「出渠(しゅっきょ)」といいます。ドックからの進水は、同時に出渠でもあるのです。船台式のような迫力はありませんが、巨大な船を安全に艤装岸壁に係留させるには、この方式がいいように思います。
進水したばかりの船は、形こそ整っていますが、まだ機能が備わっていません。船は船主の要望する機能を備えて初めて働くことができるものなので、進水した船に機能(様々な装置、装備)を付加してく工事が続けられます。これを艤装といい、これを行う岸壁が艤装岸壁です。船台やドックでも艤装はできますが、浮かべる状態になった船を船台やドックから離すことによって、次の船を造り始めることができます。なので、速やかに進水させてることによって多くの船を建造することができるのです。
船を進水させるためには、もちろん船の中に海水が漏れてくる浸水を防ぐことはもちろんですが、巨大な船体を移動させること自体が危険を伴う作業ですので、造船所を挙げての対策が必要です。
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ドックに注水開始
まさに「ONE TEAM」としての作業です。
造船所によっては、船台からの進水を見学できる所もありますので、是非一度見学されることをお勧めします
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進水終了ー次の船の組み立て開始

宇高航路のフェリーさよなら👋

12月15日で、岡山県玉野市宇野港香川県高松港を結ぶ宇高航路のフェリーが運航取止めとなりました。報道にあるとおり瀬戸大橋の開通とその通行料金の値下げの影響で客足が減り経営が困難になったことが原因のようです。私は、何度か乗船したことがあります。航程の割に料金が安く、船内も広々として快適だったのを覚えています。宇野港のある玉野市には、海上自衛隊の艦艇の建造、修理に関係する三井造船の玉野工場(三井玉野)があります。私がこのフェリーに乗ったのも乗艦していた艦艇が三井玉野の工場に修理で停泊していた時でした。この時は既に大橋も架かっており、落日の気配が濃厚に漂っていました。それまで、24時間営業で運航していた便が、大幅に減っていき、その後、二社あったフェリー会社が一社になっていきました。往時、フェリー客で賑わったであろう港町も閑散として、アーケード通りの屋根が完全になくなっていました。
 私が海上自衛隊に入隊した昭和の末期、呉の艦艇に乗っていた頃、修理で三井玉野に入る艦は、呉などで修理する艦の乗員から羨ましがられていました。当時は山陽自動車道はなく、呉から三井玉野まで車で5時間くらいかかっていました。なので、ほとんどの乗員は修理期間中(1か月~4か月程度)のほとんどを自宅から離れた三井玉野で過ごさざるを得ない日々だったとしてもです。それは、当時の玉野市が活気あふれる港町であったことや、フェリーに乗って高松に繰出し、一晩中遊んでもフェリーに乗って寝て楽に帰って戻れる環境が楽しかったからでしょう。
 玉野からは、どの高速のICを使うにしても1時間以上かかり、大橋を使って四国に向かうのは不便です。フェリーの乗って渡る方が断然便利だと思います。だけども、実家が四国の人を除いて、私が乗艦していた乗員のほとんど誰も長い修理期間中に四国に渡る者はいませんでした。乗員の趣向も一般の方と同様に様変わりしています。昭和から平成の一桁のころまでは、上陸などの時も所属する艦内の班やパート単位に集団で行動することが多かったものです。大人数で同じパチンコ屋に行って、その後居酒屋やスナックで飲み、歌うなどがお決まりのパターンで、ギャンブルにハマって多額の借財を負う者や飲めない酒で体調を壊す者や酒の上のトラブルを起こす者があるなど負の側面も確かにありました。ただ、一人ではなかなか手を出しそうにない、足を伸ばしそうにない事柄や場所に行く機会を作ってくれることなど新しい発見や経験を与えてくれる機会にもなっていた気がします。いつも自室やネットカフェなどに籠ってゲームばかりに耽るのであれば、その中の数回を周りの仲間と一緒に過ごすのは悪いことばかりではないように思います。時節柄、最近「忘年会スルー」という単語をよく目にしますが、忘年会に限らず、経験豊かな上司が企画を考えて行う会であれば若い人たちにも伝わる良いところがあるかもしれません。疑似だけでは味わえない趣深い、奥の深さがあると思います。
 宇高航路のフェリーに限らず連絡船は落葉の時を迎えています。有名な青函連絡船をはじめ多くの連絡航路が廃止となっているようです。私が昔乗ったことのある呉・広島と別府を結ぶ客船「ゆふ」もかなり前になくなりました。旅行は、非日常を味わう機会ですが、車の運転に慣れた人にとって車での移動は日常です。しかし、船上の旅であれば非日常です。より非日常を楽しむためには、旅程の中に船をチョイスするのは悪くないと思います。

女船乗り

 12月2日付で海上自衛隊初の女性イージス艦の艦長が誕生したと新聞が報じていました。艦長の写真付きのネットニュースが数日経過したあとでもまだ掲載されています。
女性の社会進出は当然ですが、自衛艦に乗る女性は相当の苦労があろうと思います。彼女の活躍と武運長久を祈念する次第です。女性、特に家庭を持った女性には、本人の努力と家族の理解と協力が不可欠です。
単に夫の理解を得ていても、その夫よりも長時間を他の男性とともに過ごすこと、そして(古い言葉で言えば)守るべき「家」を空けることに夫の家族(姑)がどう思うのかという問題が生じるかもしれません。もちろん、自分の子供が未成年であれば、その面倒を誰が看るのかというとこも重要です。そういう問題をクリアしてイージス艦の艦長までに至った彼女の能力と邁進力は称賛に値するものと思います。
ただ、誰もが彼女みたいに艦長までになれるとは限りません。むしろ多くの女性が途中で夢をあきらめていっていると思います。艦艇で勤務をしたいと思っている若い女性は、経験として艦艇での勤務を希望していいても生涯に亘っての仕事と考える人はむしろ少ないかもしれません。彼や夫、そして子供ができて、その考えが変わるのは仕方ないのかもしれません。そして「青白き船乗り」でも書きましたが、護衛艦などの中の女性区画のスペースが限られているので、仕事をその中心となって働く時期(いわゆる「働き盛り」)に艦艇に乗っていることができないこともその後のキャリアを閉ざす一因にもなっていたように思います。
 また、護衛艦などの艦艇は、プライバシーの問題もあります。女性区画が限られていますが、その女性同士のプライバシーはほとんどありません。ある女性自衛官が、乗艦した艦艇で、入浴の時にほかの女性自衛官のお尻が見えるのが嫌だったと言っていたのを思い出します。艦長室は、個室ですがこれもプライバシーはあってないようなものです。報告のための入室などもありますが、航海中は日出・日没の度に担当の乗員が艦長室の窓の開け閉めに来ます。夕方には艦長室の掃除と浴槽への湯張りにもやってきます。艦長を務めていた時、こんなこともありました。ある停泊中に艦長室に戻り、用を足そうとしたところ、ドアのところに工具が置いてありました。変だなと思いつつも便器に座り用を足していたところ、乗員が突然トイレのドアを開けて目があいました。
その乗員は驚いて「あっ」と声を発し、私は「ごめん。ちょっと待ってて」と言いました。彼は急いで部屋から出ていきました。その乗員は、トイレの整備担当で、私がいない隙に整備をしていたようで、途中で必要な工具を取りに行ったわずかな時間に私が戻って来たということのようでした。多分、女性の艦長は、どなたもいちいち鍵をかけており、こんなことはないと思いますが、それでも艦内のほとんどが公の場所であるとの覚悟もいるように思います。
北朝鮮の動向が気になりますが、頼りはやはりイージス艦。気苦労も多いとは思いますが、国民のために頑張っていただきたいものです。

しまなみの島暮らし

現在私は、愛媛県上島町岩城島という小さい島に住んでいます。広島県尾道愛媛県今治を結ぶ「しまなみ海道」沿いにある、上から見ると三角形の形をした周囲約12㎞程度の小さい島です。
西瀬戸自動車道は通っておらず、本州や四国と連接する橋は架かっていません。(上島町の島々は町内の島以外に橋は架かっていません。)
現在、隣の生名島との間に橋の建設が進んでいますが、これは、上島町内の島を結ぶものでこれも本州・四国ともにつながっていません。
上島町は、島だけからなる町で、本州・四国にはつながっていないのです。なので島内(町内)から本州や四国に渡るには、先ず船に頼ることになります。
岩城島には、定期船の発着港として岩城港(島の南部)、長江港(島の西部)と小漕港(島の北部)があって、岩城港からは今治から因島方面を結ぶ高速艇、長江港からは因島の土生港行きのフェリー、小漕港からは生口島の洲江港との間でフェリーが運航しています。
私は、島内南西端にある会社の寮に単身住んでいます。元はリゾートホテルだったものを会社で買い取り、現在は社員(独身)寮となっています。
朝・夕の食事が出て、これがとても美味しいのですが、日曜日には食事の提供はありません。
私が見たところ、岩城島内で食料を買えるのは、生協のスーパー(コープ)とデイリーヤマザキ、それに小さい食料・雑貨店の3店のみです。そのコープも日曜が定休日なので日曜の食事をどう確保するかは大きい問題です。
パンやカップ麺程度であれば、デイリーヤマザキで、足りる部分もありますが、やはり3食ともでは味気ありません。
対岸の因島生口島には大きめのスーパーもありますので、私は通勤用に買った電動アシストの折畳み自転車(パナソニック「オフタイム」)を車に積んで港まで運び、その自転車でフェリーに乗って向かいの島に渡って買い物をすることが多いです。
食料のほかに、100円ショップで消耗品も買い貯めます。寮の部屋はホテルスタイルのためシンクがありません。なので、食器を洗わずに済むように紙製の食器や割ばしを買い込むのです。
寮には大きめのごみ置き場があって、そこには日を問わずに出せますので、部屋が匂うこともありません。
寮と会社(造船所)の位置関係は、ちょうど島の対角線にあって、通常は島の西海岸沿いを通る道路を通ると約5km、上り坂20%、下り坂20%であとの60%はフラットな道で、車の通行量は少ない割りに道幅も十分で、約20分の通勤時間を快適に走ることができます。
島から自転車で渡って、しまなみ海道のサイクリングコースを走ることもあります。島々をつなぐ橋の上を自転車で走るのは爽快で、オフタイムで登る坂道は楽々ではありますが、相当に長時間走るので、ケツの痛みがたまりません。
それが、オフタイムの玉に傷なところです。しまなみサイクリングコースを走っていると多くのサイクリングツーリストに出会います。皆さんしっかりしたサイクリングロードバイクに跨って走っています。そのスタイルもヘルメットからきている服装まで同じようないでたちで
電動自転車とはいえ「ママチャリ」的なスタイルの自転車に乗っているのは自分だけで、ちょっと恥ずかしくなります。皆さんすごいなと感心していると、橋の傍の公園に同じようなスタイルの集団がレンタルサイクルショップから続々と出てきました。
「なんだ。ツアー客か」と合点がいきました。スタイルが揃っていたのも、日本人に多い「形から入る」特性を現わしていたようです。たしかに、かっこよく決めた若い女性が坂道を自転車を押しながら歩く光景を幾度か見たのにも納得がいきました。

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多々羅大橋
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橋の上の県境
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耕三寺の紅葉

「丸」12月号でも紹介されました

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「丸」ミリタリーアイテムレビュー


軍事専門の月刊誌「丸」12月号のミリタリーアイテムレビューの欄で紹介されました。

まだラグビーワールドカップは続いていますが我らが日本は健闘するもベスト8で敗れてしまいました。しかし、この1か月間日本全体を一つにしてくれたと本当に感動しました。ありがとう。
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釜山で会った日本語を学ぶ女子学生と現在の韓国

 韓国の国際観艦式に参加した時にバスガイドの件で紹介した韓国の女子学生は、正真正銘の美人でした。NO OPERATIONだと信じています。そして真面目な性格で一生懸命に日本語を勉強していることが、日本に行ったことがないにもかかわらず流ちょうに話すその日本語から感じることができました。ガイドの合間に色々と話をすることができました。当時21歳でしたが、しっかりとした自分の意見を持った女性のように見えましたが、岩城滉一などの日本のスターに好意を持っているところなど硬いだけではないと好感が持てました。彼氏が韓国のプロ野球の選手だと言っていましたが、当時はその年俸は相当安いものでしたので、ちょっと将来に不安を持っているようでした。
彼女は、日本との比較の中で日本女性が化粧が薄く子供っぽいと言っていましたが、確かに今でも一般女性でもその差は一目瞭然のように思います。また、韓国社会の不満を口にしていました。それは、女性が結婚するのに処女であることが求められるということです。初対面の、しかも異性にそこまで突っ込んだ話をするものかと正直驚きました。そして彼女が日本ではどうかと聞くので、「日本ではそのようなことはない。(映画やドラマなどでは)むしろ処女が敬遠されることもある」と答えると、彼女は心底驚いていました。
今、日韓関係は最悪と言われています。日本を批判するデモに女性や子供が参加している光景をテレビで多く見ますが、それを見る度にイザベラ・バート著の「朝鮮紀行」を思い出します。そこには、日本でいう明治期に、朝鮮では女性が極端に差別されていたことが書かれています。昼間、女性は外出できないのです。夜になって女性が水くみ場で洗濯物を棒で叩く音が町中に響いていると伝えています。そういう女性差別の風潮が未だに残っているのだろうと彼女の話を聞いて思いました。未だに日本統治を戦犯として非難する動きがありますが、その中に女性が含まれていることが私には不思議でなりません。20年前でさえ、彼女が言うように女性への縛りが残っているのに、日本の統治がなかったらどれだけ女性の地位が進んだのか想像できません。当時のままの女性の社会的地位であった方が良かったと思っているのか、単に無知なのか。日本との関係を見ても「無知は罪」と思わざるを得ません。
さらに言うと、同じイザベラ・バートの「日本紀行」とを比較して読むと、当時(幕末から明治初期)の日本でも不衛生、貧困、異臭など共通の特性が表現されていますが、日本人には誠実さ、信用性の高さが書かれているのに対して、朝鮮では「両班」の親族優遇による不正と
民衆に対する搾取による倦怠感がまん延する希望のない国の実情が描かれています(ただし、治政の及ばない地域では朝鮮人も創意とやる気で高い生産性を挙げる民族であることが好意的に書かれています)。歴代大統領のその後と現在の大統領府及び政権党のみならず、政治家一般を見るにつけ当時の「両班」政治、体質を残しているように思えます。日本人の信用、信頼を第一に置く国民気質と、(多分儒教思想の本質は異なると思いますが)利用できるものはとことん利用し、取れるところからはとことんむしり取ることを当然と考える朝鮮(政府)とは、根本的に相いれないことを思い起こさせました。政府間の摩擦とは別に、海軍相互は共通意識の下、連携を維持することに期待していましたが、それも裏切られた状況です。今後政権が変われば好転もあり得ますが、本意でなくとも政権によってここまで盲従する韓国国民の性質を思う時、やはり常に距離を取った付き合い方がよさそうです。日本としては、韓国に頼むことなく米国との連携を強化して対応しておく事が重要なのでしょう。少なくとも、韓国が覚醒して正気な国になるのを待つばかりです。

イカロス出版のJShips88号に「青白き船乗り」が‼

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JShips88号
イカロス出版のJShips88号(2019年9月11日発売)の105ページ メディアインフォメーションのコーナーで書籍として紹介されました。ヤッホーやったー💛
この雑誌は、海上自衛隊の艦艇の装備や活動を取り上げて紹介する専門誌で、迫力のある写真が満載されています。実は私は現職の頃、担当記者にインタビューを受け、2003年11号に写真付きで掲載されたこともあります。海自艦艇のことが取り上げられる本は少ないので是非この本と出版社が益々発展することを祈っています。イカロス出版社様ありがとうございました。